錦江湾へ入水編
saigo's_episode

『錦江湾へ入水』

京都清水寺の月照上人は、安政の大獄で追われる身となり親交のあった西郷を頼りに薩摩藩に保護を求めた。
斉彬公亡き後の薩摩藩は、幕府を恐れ上人を日向へ送ることになった。

日向送りにされた場合、薩摩と日向の国境にもっとも厳重な関所があり、この関所を通過して行くわけだが、実際には関所に近づくと高岡の郷士たちがやってきて、処刑するのが慣例だった。

日向に向かうために屋形船に乗り、北の福山を目指している最中に西郷は上人を抱えて錦江湾へ入水した。救いあげられた二人は花倉浜の漁夫・長左エ門宅へと運びこまれた。焚き火で二人を温めたが、月照は亡くなり、西郷は一命を取り留めた。
藩は死んだ者と報告し、幕府の目から西郷を隠すため職を免じ、奄美大島に潜居させ名前を〝菊池源吾”と変名させた。

『安政の大獄とは』

1858年~1859年にかけて、江戸幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝などが中心となり、朝廷の許可も得ずに日米修好通商条約を結んでしまい、多くの批判を受けてしまう。これにより、将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼ら“南紀派”と対立していた“一橋派”は、批判をいっそう強めていくことに。

調印から5日後、一橋派の徳川斉昭、松平慶永らは、井伊直弼の責任を問うべく江戸城に向かう。これに対し、井伊直弼は不法な登城であると彼らを処罰するという強気の姿勢にでた。また、孝明天皇も井伊直弼に対して、京都に来て説明するよう命令するが、無視してしまう。

この井伊直弼の行動に対して不満を抱き、天皇を尊び開国に反対するという尊王攘夷運動が全国に広まっていくことになる。この世の中の不穏な空気に井伊直弼は1858年から翌年にかけ、反対派を次々に処罰していくことに。

これが、いわゆる安政の大獄だ。

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